全ての人間が自分の死ぬ日を把握できたら、この世はどうなるのか?


昨日は最近流行りのキミスイこと「君の膵臓を食べたい」の映画ではなく文庫本を一日で読み切り、

<ストーリー>
ある日、高校生の僕は病院で一冊の文庫本を拾う。タイトルは「共病文庫」。それは、クラスメイトである山内桜良が密かに綴っていた日記帳だった。そこには、彼女の余命が膵臓の病気により、もういくばくもないと書かれていて――。読後、きっとこのタイトルに涙する。デビュー作にして2016年本屋大賞・堂々の第2位、75万部突破のベストセラー待望の文庫化!

~Amazonより引用~

 

今日は浅田次郎原作の、映画「椿山課長の七日間」を観ました。

<ストーリー>
激務がたたり脳溢血で突然死したデパートの中年課長が、たった7日間の期限つきで現世に舞い戻ってくる。ただしみずからの正体を明かすことは許されず、39歳の独身美女の姿を借りているため、行く先々で珍騒動が巻き起こる。家族に、仕事に、やり残したことをやり遂げ、主人公は無事成仏できるのか。行動をともにするやくざの組長と小学生のストーリーをからめつつ描かれる、ハートウォーミングな「死者の自分探し」の物語である。

~Amazonより引用~

「死」は全ての者に訪れる

図らずもどちらも「死」が大きなテーマとなる作品で、あらためて死ぬことを考える。

おかげさまで健康体で、何不自由ない生活をさせていただいているので、病や死について考えることが最近なかった。

今回この2作品に触れ、

  • ひとり残らず人は必ず死ぬ
  • 死はいつ訪れるかわからない
  • 何事も終わりがあるから大切にできる

主にそういったことを強く感じた。

今この瞬間生きているボクらにはほぼ間違いなく「明日がある」、けど、もしかしたらもしかしたら今夜眠ってもう2度と目覚めない可能性だってある。

だけど、ボクたちは明日も生きるし、明後日もその次も、生きていると思い込んでいる。というか、思ってさえもいない、当たりまえになっている。自分だって、明日もあさっても、というかあと50年は生きるだろうと勝手に信じている。

けど、それを保証するものは何もない。

 

余命宣告をされ、死へのおおまかなカウントダウンができてしまう人は、なにげなく生きていた時より1日1日をより大切に過ごそうと思うはず。

なにげなく生きている人間にとっては、そこまで1日そのものを大事にはしないだろう。

明確に命の限りがある者とそうでない者で、「1日の価値の違いはあるのか?」という問いかけがあったが、もちろん誰にとっても時間は平等で価値というものがあるとすれば同じであるはず。

 

しかし、余命3ヶ月の人間にとって明日という一日は1/90であるが、健康な人にとっては1/?であって、価値は同じでも、その人の感じる1日の重みは全く違うだろう。

たとえ健康な人であっても、明日という一日が1/1000かもしれないし、1/5かもしれないという、人間である限りその可能性はあるんだと思うと、やっぱりこわい。

終わりが見えれば自由になれるのか

最後の1日を迎える日がわかっていれば、人はもっと自由に思い切り自由に、生きられるんじゃないか。そんなことを思う。

全ての人間が、自分自身の死亡日時を把握できたとしたら、この世はどうなるんだろうか?人間はどうなるんだろうか?

平和になるの?争いが起こるの?愛が生まれるの?何もしなくなるの?

 

また、死ぬ間際の人たちは「自分がしてこなかったことへの後悔」を口にするというけれど、もし死ぬ日時がわかっていればやらないで後悔するなんてことはなくなるんだろうか?全ての物事にチャレンジし、行動することができるんだろうか?

もしそうだとしたら、自分の死亡日を知れたほうがいいような。

冒頭にご紹介した「椿山・・・」の作品は、死んでしまったが現世にやり残したことがあって3日だけ蘇ってきてわちゃわちゃするストーリーだったけど、現実の人間は生き返らない(はず)。

死んだらそんなことも関係ないんだろうけど。もし魂が死してなお存在するとすれば、やり残したことがあったならば、さぞ後悔が残るだろう。

 

そんなこというてますが、ともかくボクたちはいつ死ぬのか、わからない。

人間をつくった神様がいたとして、いつ死ぬのか誰にもわからない、わからないようにしている意味は?

あなたの最期の日は、明日か10年後か30年後か?

自分もいつ死ぬのかわからないけど、

死ぬときは、ポックリ死にたいね。







コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です